力のない正義は醜悪

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週刊少年ジャンプ

「正義のない力は醜悪。しかし、力のない正義も同じように醜悪」

これは、その昔「週刊少年ジャンプ」を読んでいたら、出てきたセリフ。どんなに正しい気持ちを持っていようとも、悪者の方が強ければ潰されてしまう。悪者を退治するには力が必要。力を持たない正義は犬の遠吠えと一緒。

悪が醜いものならば、悪に勝てない力もまた同じように醜い。

子供心に「なるほどなぁ」と思った。「踊る大捜査線」で、和久さんが「正しいことをしたければ、偉くなれ」と言っていたのも、これに通じる。

三谷幸喜の言葉と、深い森の木

「王様のレストラン」や「古畑任三郎」の脚本家、三谷幸喜が以前、テレビの視聴率について次のようなことを言っていた。

あるところに深い深い森がありました。そこに一本、大きな木が立っています。まわりは深い深い森で、大きな木の近くには、誰も住んでいません。ある日、大きな木が倒れました。大きな音をたてて倒れました。しかし、木のまわりには誰もいません。大きな音は誰も聞いていません。だから、木が倒れた事は誰も知りません。

この木は存在していたと言えるでしょうか。どんなに大きな音をたてて倒れても、誰もそれに気づかなければ、存在しなかった事と同じではないでしょうか。

内容が良かった悪かったというのは、その番組を見てくれなければわかりません。誰も見ていないのなら、内容に関係なく、その番組は存在していないのと同じです。

読んでもらえないブログは、存在していないのと同じ

ブログに何を書こうとも、誰にも読んでもらえなければ、書いていないのと一緒。

いかに正論を吐こうが、読んでもらえないのなら無意味。力のない正義は醜悪である。正しいことをしたければ、偉くなれ。

誰もいない場所で、木が倒れても世界には響かない。毎日同じ数人の読者が来るだけのブログでは、世界には響かない。コメントをもらっているのは、毎日同じ相手だけなのに「コメントをもらえている。読んでもらっている。」と自分をごまかしていないか。

そもそも、そのブログは何を目的に書いているのか。目的は達成出来ているのか。自分をごまかすな。読んでもらいたいのなら、偉くなれ。

ドラゴンボールとミスター・サタン

魔人ブウを倒すために、孫悟空は地球のみんなに呼びかけた。「みんな、オラに力を分けてくれ」

でも、地球のみんなはそれを無視した。孫悟空のことを知らなかったから。

今度はミスター・サタンが呼びかけた。「地球のみんな、私はミスター・サタンだ。お願いがある。空に向かって手をかざしてほしい。」

地球のみんなが、協力した。ミスター・サタンは英雄だから。

魔人ブウは、そうやって倒された。地球のみんなはミスター・サタンに従った。ミスター・サタンの事を知っていたから。

修羅の国の仮面ライダーへの謝辞

ある記事で、自分が拡散を呼びかけたら、呼応してくれたブログがあるっちゃ。一日3000アクセス程度あるブログっちゃ。そのブログのリンクから、一日に100アクセス以上、人が来たっちゃ。彼の読者の30人にひとりが、呼応してくれた事になるっちゃ。彼は、読者の信頼を勝ち得ていると思うっちゃ。

将棋の駒と、週刊少年ジャンプの伝統

西洋のチェスの場合、相手の駒を奪うと、その駒はもう誰も使えない。その駒は死んだのである。日本の将棋は、相手から駒を奪うと味方として使えるようになる。これが、チェスと将棋の大きな違い。

週刊少年ジャンプには、長年の伝統がある。

「ドラゴンボール」など、週刊少年ジャンプの漫画は皆、敵と戦い終わると、その敵は味方になる。そして、新たな敵が現れる。その敵は、今までの敵よりも強い。その敵を、仲間とともに倒す。そして、また味方が増える。これが、少年ジャンプの伝統である。

では、正義とは何か

正義などというものは、見方によって変わるもの。

キリスト教にとって、イスラム教は「悪」。しかし、イスラム教にとってはキリスト教が「悪」。どちらが正しいのか。誰がそれを決めるのか。

日本にとって、北朝鮮は「悪」。しかし、北朝鮮にとっては日本が「悪」。では百年後、日本にとって北朝鮮は「悪」なのか。誰がそれをわかるのか。

戦前の日本において、アメリカは「悪」。今の日本にとって、アメリカは味方。時代とともに、正義は変わる。

所詮、正義などそんなもの。であるならば、自分を信じて生きるしかない。

6月3日、ひとつのブログが消滅した

消滅したブログは、自分が叩いて潰した。間違った事をしていたから潰した。そのブログは間違いを犯したが、作者が悪党だったかどうかは誰にもわからない。少し違えば味方になっていたかもしれないし、敵のままだったのかもしれない。

正義なんていうものは、自分が決めること。見方が変われば悪も正義もない。自分が信じる通りに進むだけ。


実を言うと、どう思っているのか、自分でもわからないんだよ。大勢の人に話したのを、後悔してるんだ。僕にわかってることといえば、話に出てきた連中がいまここにいないのが寂しいということだけさ。たとえば、ストラドレーターやアクリーでさえ、そうなんだ。あのモーリスの奴でさえ、なつかしいような気がする。おかしなもんさ。誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。

J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」訳:野崎 孝


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